「気がつきましたか、。」










     が目を開けた時、視界に飛び込んできたのは菫色の長い髪だった



     「ムウ……?…私……?」

     「ああ、まだあまり無理をしてはいけませんよ。今の貴女は極度の貧血状態にあるのですから。」



     起こしかけた身体を、ムウはそっと寝かし付けた

     …そういえば、視界の端がゆらゆらとして固定しない気がする



     「ねえ、ムウ。…なんで私は此処に寝ているの?」

     「……覚えていないのですか?…まあ、それも仕方のないことですね。」



     ムウは煎じ薬をポットからカップに注ぎ、テーブルの脇に置いた




     「、貴女は泉で怪我を負ったのですよ。…試験管を取り落としてね。」



     ムウの言葉に、ガラスが砕けた瞬間がの脳裏をフラッシュバックする





     「…あ!」





     はガバッ、とベッドから身体を起こした
     視界が、くらくらと緩やかに回転をする



     「ムウ、今日は何曜日!?」

     「……え?今日ですか?今日は…木曜ですが、それがどうしたのですか、?」

     「木曜!?……ああ、報告書の提出日じゃないの!…どうしよう、まだ報告書すら作成していないのに!!」



     曜日を聞いて慌てふためくを見て、ムウは微かに笑った

     ……「泉守」ですね、は。…本当に。
     それにしても、ここまでを回復させるとは、誠にあの方は恐ろしいお方だ。
     かれこれ100年以上も行っていない反魂をなさったと伺ったが…あの方がそこまでご執心とは…。
     このハードルは、ちょっと高そうですね。




     「もう、何を笑ってるのよ、ムウ!!ああ、どうしよう、教皇猊下に叱られちゃうわ!!」

     「いえ…思ったより元気そうで何よりですよ、。それに…」

     「それに…?」

     「…貴女もまだ身体が万全ではないのですから、今日くらいは休んでも構わないと思いますよ。…猊下はお優しい方ですから。」




     "きっと、貴女には…ね"という部分を隠したまま、ムウはの身体に毛布を掛けた



     「そうなの…?ちっともそんな風には見えなかったけど。仮面のせいかしらね?」



     は首を傾げて教皇の姿を思い出した
     威厳に満ち満ちたその姿は、万人をも萎縮させる重々しさを持っていた



     「さあ、お休みなさい、。猊下には私から事情を説明申し上げておきますから。」

     「……判ったわ。貴方に任せるわね。…ごめんなさいね、ムウ。こんなことばかり押し付ける羽目になってしまって。」

     「…いいのですよ、私のことは。それよりも、早くお休みなさい。」



     ムウがの顔の前でその白い手を翳すと、は急に眠くなり、そのまま目を閉じた
     催眠の一種であろうが、ムウはこれらの技を良くこなした






     「今回は…の命を救ってくださったことに免じて、貴方に一歩譲らせていただきましょうか。まだまだ、先は長い事ですしね。」






     健やかなリズムを刻み始めたの横顔を眺めながら、ムウは丘の上に向って独りごちた





















     翌日の夕刻、はようやく纏め上げた水質調査のレポートを携えて、教皇宮の前まで辿り着いた
     本来であればこのような遅い時刻に書類を提出する事自体が大層な非礼に値するのであるが、
     どうやらムウのおかげで今回は特別に許されたようであった
     夕刻とは言え、最早夜に差し掛かっていると言っても良いほど日は暮れ、辺りは暗く静まり返っていた
     おまけに、教皇宮には元来人気が少なく、今の時刻に至っては警備のための数人を残すばかりである



     「…昼間に来てもちょっと不気味なのに、この時間だと尚更ね。」


     左手に報告書を携えたまま、は教皇宮の回廊を見渡した
     しーんと静まり返った宮殿内に、の小さな声が木霊した


     「…流石にちょっと怖いわね。…早く奥に通してもらえると良いのだけれど。」




     10分ほど経った頃、神官に呼ばれてようやくはその場を立った
     常の報告と同じように教皇の謁見室に入って片膝を着いたところ、今夜は神官に呼び止められた


     「…今宵はこちらの謁見室ではなく、奥の執務室にお通しせよとのお達しでございます。どうぞ、こちらへ。」


     奥の執務室…?
     報告を受けるだけなのに、なんでまたそんな所に…??


     聞きたい事は山のようにあったが
     終始無言のまま、は神官の後に付いて部屋の奥へ奥へと回廊を進んで行った

     こんな奥の部屋に通されるなど、今までは経験したことはない
     嘗てないほどに緊張したの胸は、早鐘を打ち続けていた














     細い回廊の奥まった所に、大きな扉が設えられていた
     神官が重々しい扉を手前に引く
     その扉は、の力ではとても動かす事が叶わないかもしれない
     ギギギッ、と大きな音をたてて徐々に扉が手前に開かれた


     「では、私はこれにて失礼させて頂きます。」


     を此処まで導いて来てくれた神官が、此処まで来ると突然に会釈して音も無く下がって行った

     …ええ?ちょっと、私どうすれば良いのよ…?

     神官に去られたは、開かれた扉の前で立ち竦んだ
     教皇が居るであろうと思われる部屋の内側は、謁見室に比して酷く薄暗く、中の様子を窺うのは困難であった

     ねえ、本当に此処なの、執務室って?
     …入っちゃってもいいのかしら…??

     執務室の前でおどおどとしていたに、部屋の奥から徐に呼び声が掛けられた








     「…何をしている?早く入るが良い。」








     の耳を低い響きが心地良くすり抜けて行く


     …あれ……?
     この声……



     「どうした?…早く入らぬか。」

     「は……はい。申し訳ございません。」


     は急かされるがままに、薄暗い室内へと入った

     謁見室と異なり、執務室はさほど大きな構造はしていないようだった
     …とは言え、小さな家一件分くらいの広さは優にあるのであるが
     照明が落とされた部屋は、にとって少々不気味な印象を呈していた


     ギギギッ…


     部屋の中ほどに踏み込んだ所で、入り口の扉が先ほどと同じ重々しい音を立てて閉じられた


     …誰もいないのに、どうして…?


     思わずギョッとしたが後ろを振り向くと、部屋の奥から再びあの低い声が届いた



     「この程度のこと、私には赤子の手を捻るより容易きこと。…今更驚くまでも無い。
     それよりも、そなたは私に任務で参ったのであろう?早く報告し申せ。」

     「はっ。…重ね重ね申し訳ございません。」


     まるで自分の心の裏(うち)など見透かしているようだ


     は愕然としながら教皇のおわすであろう奥へとその歩みを進めた

     薄暗い部屋の一番奥に、教皇は深く腰掛けていた
     は、教皇の前まで来ると、膝を折り、報告書を差し出した




     「此度は、何か異常は見受けられたか?」

     「いえ、砂・水共に特に不審な点はございません。」

     「…そうか。大儀であった。」




     の目の前の教皇は、手にした杯を燻らせて頷いた
     がほっと胸を撫で下ろした所で、再び教皇が声を発した



     「此度の報告、通常より遅れた理由は如何なるものか?」



     の肩がビクッと震える

     ムウが報告していた筈なのに…

     この時、教皇は実は口元を綻ばせていたのだが、仮面に遮られているため、がそれを知る由もなかった


     「実は……」


     逃げられないと思ったは、今回の顛末を正直に語り始めた












     「ほう…神とな。」

     「はい。」



     から「神に命を助けられた」と聞いた教皇は、仮面の上から顎の部分に手を当てて暫し首を捻る仕種をした


     「そなたの誠意に、神が応えたもうたのやもしれぬな。…何にせよ、今後も職務に励むが良い。」

     「はい、有り難きお言葉、恐悦至極に存じます。」



     ようやく帰ることが叶いそうな雰囲気を察して、は半ば浮き足立っていた



     「…ところで。」

     「はっ。」



     またもや自分の心を見透かされたのかと、どきっとしたの背中に一筋の汗が流れた



     「一つそなたに尋ねたいのだが、その神はどのような姿容をしておったのか。」

     「は…。ええっと…姿容と申されますと?」

     「うむ。私は教皇であるのでな。そなたの前に現れたもうた神が如何なるお姿をしておられたのか、少々気に掛かるのだ。
     …書の記述に照らせば、何方か判るやもしれぬしな。」



     至極荘厳な口調で、目の前の教皇はに語り掛けた
     なるほど、流石は教皇だけのことはある、大した知識欲でいらっしゃるとは妙に感心してしまった




     「そうですね。…髪の色は銀色でおいででした。」

     「ほう、で瞳は如何なる色でいらしたのかな?」

     「ええと…赤色でした。紅と申し上げた方が適切かもしれません。」

     「…成る程な。で、そなたは彼のお方のお声を拝聴いたしたのかな?さぞお美しいお声であったろう。」

     「はい。大変低く、それでいて耳に透るお声で……」





     と言いかけた所で、は気が付いた
     の前の椅子に座していた筈の教皇が、何時の間にかのすぐ側まで歩み寄っていることに




     「げ・・・いか??」

     「そのお方のお声は斯様な響きであったのでないか…。」




     の耳元に教皇は低く囁いた
     仮面越しであるとは言え、その声は紛れも無くあの「神」の声そのものであった
     …だが、「お姿」を拝するだけでも畏怖してしまう筈の教皇に「耳元で囁かれる」という有り得ない状況に置かれたは、
     すっかり動転してしまいそれに気付くどころではなかった



     「げ…猊下っ!何をなさるのですか!!」


     は、慌てて身を一歩分後ろに退いた


     「フフフ。よ、そなたが見た神とやら、如何なる姿容をしておったのか、存分に確かめるが良い。」


     開いた一歩分の距離を隔てて、教皇は自ら仮面とマスクを持ち上げ、ゆっくりと外した



     「…え?ああっ!?」



     専ら謎とされていた教皇の素顔が、今の前に曝された
     …仮面の下に隠された顔は……あの泉の「神」そのものであった


     白銀の美しい巻き毛
     髪の色ほどに美しい白い肌
     …そして、見る者総てを惹き込んでしまう紅い瞳




     「貴方が……教皇だったなんて……。」


     は、愕然として肩を大きく落とした


     「フフ…驚いたか、よ。そう、あの日泉でそなたと会った「神」が私だ。…そして教皇・シオンでもある。」

     「…そんな…そんな事があるなんて…!」


     目を大きく見開いたまま、はその場に立ち尽くしていた


     「貴方が、教皇猊下……。…ああっ、じゃあ、あの時の私の話…!」


     暫し茫然自失状態のであったが、泉の中で相手が「神」だと思って話した内容を思い出し、急に顔を赤くした
     その刹那、シオンの片腕がを抱すくめ、もう片方の手がの頭を撫でていた






     「…全く能く仕える娘だ。…まこと、泉守に相応しい。」







     くしゃくしゃ、とシオンの大きな掌がの髪の毛を撫でる
     頭を撫でられる、などと言う行為を十数年以上受けたことのないであったが、シオンのその仕種は自然そのものであった
     シオンの為すが侭に、は身を任せていた








     「…だが、二度と私の前から消えて無くなるな。私を独りにしないでくれ。」

     「猊下……。」







     驚いて顔を上げようとしたを制するように、シオンはの耳元にその唇を近づけた




     「猊下、ではない。…シオン、と。私の名を呼んでくれ。……そなただけだ、。」

     「…シ…オン。」

     「もう一度、呼んでくれ、天が私に与えたもうたその名を。」

     「シオン…。」

     「そうだ…それで良い。」





     顔を上げたの前で、シオンは目を細めて嬉しそうに笑った


     …まるで子猫のようだ
     様々に表情を変え、見る人間を翻弄し、魅了する
     …教皇とて、一人の男
     可愛らしい面もお持ちなのだ、シオンは


     シオンの表情を見たはそう思った





     「私は、猫なぞではないぞ。斯様な物と一緒にするではない。」





     の心の裏を読んだのか、シオンの表情が俄に渋くなった
     …それがまた、がシオンに抱く直感を強めるとも知らずに


     仮面を身に付けるのは、その表情の変化を見せたくないからなのか
     …それとも、その逆の因果関係であるのか
     くるくると変わるその豊かな表情は、拝することの能う至極僅かな人間に強い印象を与えるのであろう
     ……どこまでも遠くまで香り立つ金木犀の花の様に











     その後、の報告書提出先がシオンの執務室に変更されたのは語るまでもない






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